『人は自己より小さい者の助けを必要とすることがしばしばある』
―ラ・フォンテーヌ― フランス王国、ルーアン郊外の田舎街に、一軒の平凡な宿屋があった。その宿屋は、今夜宿泊する二人連れのうち、一人にとってはあまりにも粗末で、もう一人にとってはあまりにも豪奢であった。前者は若い男で、全身ひどく汚れていたが、着ている服と腰に差した剣、何よりも男の口から出る言葉は、この者の身分が高いことを示してた。後者は幼い娘で、こちらも全身ひどく汚れていた。よほど寡黙なのか、一言も言葉を発する気配がないが、服装を見る限り、男と違って身分は最下層であろうと思われた。ただ、両者に共通していたのは、二人ともひどく疲れているということであった。 宿屋の主人は、この奇妙な二人連れに首を傾げたが、男の身分を察するに、断らないほうが懸命だと判断することにしたらしい。召使を呼んで、この二人連れを空いている部屋に通させた。 男は、部屋に入るなり召使に風呂の用意をさせ、たっぷりと時間をかけて、自分の体に積もった汚れを洗い流した。頭の先から足の先まで泥を落とし、髭を剃り髪を整えると、鏡に向かって、数日振りに本来の自分と対面した。そこには、先程までの薄汚れた浮浪者のような男の影はなく、貴族然とした立派な青年の姿が映っていた。 「久しぶりの貴族らしい姿―いや、今の俺は『貴族らしい』だけの、唯の男になってしまったのだな…」 男は、鏡に向かって自嘲的な笑みを浮かべた。 この男―ラファエル・ソレルは、つい数日前まで、フランス屈指の名門ソレル家の若き当主であった。非情だが有能なラファエルであったが、ある日、些細な判断ミスが原因で失墜し、それを受けたソレル家一族は、ラファエルの身柄を差し出すことで、己の保身を謀ったのであった。そのためラファエルは、もともとの敵はもとより、かつての一族からもその身を狙われることになったのである。 陰謀と計略渦巻く上流社会を渡り歩くことには慣れていても、空腹と寒さに耐えることには不慣れな身。追っ手から逃れるうちに貧民街に辿り着いたラファエルは、その頃にはもう意識は朦朧とし、足元は覚束なくなり、体は泥にまみれ、かつての上流階級の貴族青年の面影は認めるべくもなかった。 (俺は、このまま野垂れ死ぬのか―) 幾度となくそう思うようになったある日のこと、追ってきた兵隊と戦う気力も体力も無くし、弱った体でただ逃げ回るしかなかったラファエルを、貧民街に住むエイミという少女が助けてくれた。助けるといっても、ただラファエルの居場所を訪ねてきた兵隊に別の方向を示し、その場を匿っただけのことであったが、誰一人として信用できない環境に育ち、自身の力だけを頼りに生き、今や味方が一人もいなくなってしまったラファエルにとって、それはにわかに信じ難いことであった。ラファエルは、兵隊が通り過ぎると、自分を匿った少女に問いかけた。 「なぜ、私を助けた?」 少女は何も答えず、ただ緑色の大きな目でラファエルを見つめた。 その瞬間、ラファエルの胸の中で、これまで感じたことのなかった感情が止め処も無く溢れ出し、衝動的に少女を抱きしめさせた。追われる身となる前なら、決して触れることもしなかったであろう、貧民街の汚らしい少女を。そして、何としてでもこの少女を幸せにしたいと思った。こんな所で一生を終えさせるのではなく、良い服を着させて、良いものを食べさせて、良いところに住まわせて、良い教育を受けさせて、この少女の未来に光を当ててやりたい…!そう思うと、ボロ雑巾と成り果てたはずの身に、不思議と強い気力が沸きあがってきた。 「お前の名は?」 「…エイミ。」 その後、ラファエルはエイミを連れ、その気力でもってルーアンを逃れた。そして、身に着けていた指輪を換金した金で、今夜の宿を取ったのである。 ラファエルは、宿屋で用意されていた質素な着替えに袖を通し、今まで着ていた服を洗濯娘に渡した。田舎町の辺鄙な宿屋の洗濯娘に、上質の服や皮手袋を手入れするだけの知識や技術があるとは思えなかったが、これ以上泥まみれの服を着ているのは耐え難く、今となってはそんなことはどうでもよかった。 エイミは、ラファエルが風呂に入っている間、何をするでもなくただ椅子に腰掛けて過ごしていた。風呂に入る習慣などないのであろう。ラファエルは、水を含ませた布でエイミの顔と手を拭いてやった。 食事は部屋まで運ばせることにした。固い黒パンに、味が薄く中身もほとんど入っていないスープ。肉もただ茹でただけで満足に味も付いておらず、元上流階級のラファエルの感覚からすれば、質素を通り越して粗末なものであった。だが、満足に食べるものもなく貧民街を彷徨った身には、この粗末な食事ですら喜ばしく感じられ…そしてまた、それを喜ばしいと感じてる自分のことが、惨めで、哀れで、腹立たしく思われた。 (俺も堕ちたものだな…) 思えばこの宿に来たときからそうだ。粗末な風呂、粗末な着替え、粗末な屋根、粗末な寝床、粗末な食事…そんな粗末なものですら、いちいち喜ばしい気分になれるという今の感覚は、同時に失ったものの大きさをラファエルに思い起こさせた。 ふとエイミを見やると、まだ食事に手をつけず、まるで何かを伺うかのように、ラファエルと目の前の料理を交互に見つめている。 「どうした、食べぬのか」 ラファエルはそう言って、黒パンを千切って食べた。それを見たエイミも、ようやく食事に手をつけた。今まで礼儀作法を教えられたことがないのであろう。パンを手に掴むとそのままかじりつき、スープは皿を手で持ち上げ、掻き込むかのように啜りだした。その乱雑極まりない食事風景に、ラファエルは目を丸くした。挙句の果てに、フィンガーボウルの水を飲み下した時には、ラファエルは最早苦笑するしかなかった。作法を教えてやろうかとも思ったが、今はやめておくことにした。粗末な食事だが、エイミにとっては、これまで生きてきた中で、初めてのまともな食事なのかもしれない。 やがて食事を全て平らげたエイミは、満腹になったらしく、微かに「ふぅ」と溜息をついた。その様子を見たラファエルは、久しぶりに自分の胃袋を満たせたことよりも、エイミの胃袋を満たせたことに満足した。そして、他人のことで喜んでいる自分に気付いて、少し不思議な気分になった。初めての感覚―以前の自分なら、決して持たなかったであろう感覚。 その夜、ラファエルはベッドの中で、エイミと出会ってから今までの数日間に、初めて自分の中に生じた感覚の数々に思いを巡らせた。エイミに助けられた時の衝撃、エイミを幸せにしてやりたいという思い、エイミのことで喜ぶという感覚… なるほど、確かに失脚したことで失ったものは大きい。しかし、もしかしたら得たものも、今の自分が思っている以上に大きいのかもしれぬ。下層の民は、その日を生き抜くことに精一杯で、あらゆることに無知であるのは当たり前だが、貴族とて、つまらぬ争いに明け暮れるばかりで、様々なことに気付かぬまま一生を終えるものなのかもしれない。今や自分は、この地から遠く離れなければならぬ身である。それならば、これからは貴族とも平民とも離れたところで、今一度世の中を見つめてみるのも悪くはない。 エイミは既に、隣のベッドで深い眠りに落ちていた。その寝顔は、失脚したことでラファエルの中に生じた心の空洞を、徐々に幸福感で満たしていった。 明日ここを発ったら、エイミに服を買ってやろう。そして、とりあえず南のほうにでも逃れて、エイミと共に暮らす場所を見つけよう。気候の良い土地ならば、今は頑ななエイミの心も、少しは解れることだろう… そのようなことを思いながら、ラファエルもまた眠りに落ちていった。疲れきった体は、片田舎の宿屋のベッドの中に、深く深く沈んでいった。 <あとがき> 7年前、ラファエルとエイミがまだ出会って間もない頃のお話です。SC2のラファエルストーリーで、詳しく書かれていない部分を脳内補完する形で書いてみました。無我夢中でなんとかルーアンを逃れて、久しぶりにベッドで寝れて、まだ安心は出来ないけれどちょっと落ち着けて、失脚して以来初めて、自分の周囲を見つめる余裕ができたときのラファエルの心境は、こんな感じだったんじゃないかな…という、勝手な妄想です(笑) エイミがラファエルのことを助けた理由は、「兵隊が嫌いだったから」という程度のものだったので、SC4の時点ではラファエル大好きなエイミも、まだこの頃は、持ち前の強固な警戒心もあって、それほどラファエルに懐いてはいなかったと思うのですよ。なので、その後二人でいてしばらくの間は、エイミがラファエルのことを積極的に助けるということはあまりなく、むしろ、今まで自分のためだけに生きてきたラファエルに、初めて守るものができ、その者を生かそう、その者の為に生き延びよう気持ちになったことが、逃げ延びられた最大の要因なのではないかと思うのです。そして、たぶんラファエルの人生って、エイミと出会う前より出会った後のほうが幸せだと思うのです。あんな形でも…(笑)。なのでエイミは、単に兵隊から匿ったというだけではなく、色々な意味でラファエルを救ったんですね。 最後のほうで、ラファエルは、環境が変わればエイミも変わるだろうと考えているのですが、残念ながらこの先そうはならなかったわけで、それでラファエルは、「エイミが変われなければ、世界がエイミに合わせて変われば良いじゃない。」っていう発想に至ってしまうのですねぇ…エイミも罪作りな子です。 |